人生の中で、『何もかもが信じられなくなった』瞬間はありますか?
私は、あります。
何回か?と聞かれると、何回だろう…?と
質問への答えに躊躇うのですが…と言うのも、
信じられなくなった度合いというものがあって、
その、”度合い” によっては、割とすぐに立ち直れる場合もあるからです。
その時の私は、酷いものでした。
私が30歳で初めの大きな覚醒をした事は、ご存知かと思います。
そして、その時、私はもうすでに覚醒後で、
数年が経過していました。
しかし、とても信じていた人に裏切られました。
その時に裏切られたと感じたのは、その人間だけでなく、自分自身の運命にでさえも、
裏切られた感じがしたものです。・・・
今、その頃を振り返ると、
たった一人の人間に裏切られたぐらい…、そう、
簡単ではないけど、そう思う事も出来る。
でもその時は、まだ今よりも若く、
私はまだ、…言うなれば経験値が浅かった・・・。
私は、その一人の男性との未来さえも失った事もショックだったのだと思います。
とにかく、
全てが失くなったような気さえして、
(本当は失くなってないのだけれど、ショックな時はそう思っているものです)
運命を呪い、全てに絶望し、
そして、あのような光の存在でさえも、私にとってその時は無意味に思えました。
私はそこから立ち直るのに、
長い時間と全ての衝動を体験しました。
今、ふと振り返ると、
人がよく言う修行と言うものだったのかと頷く事も出来るのですが、
その当時の私は、望んでもいない事に『修行』という言葉を使うのは、どうもしっくり来なくて…
単なる、障害や困難に思えたし、
しっくり来ないのであれば修行を、試練と言い換えてもいいし、また、私は後で、課題という言い方に変えていました。
課題なら、人生のあちこちにあっても普通で当然かな…と、私にはそう思えたからです。
年月が経って、
修行という言い方でもいいのかもしれない…と、ここ最近では、思うようになりました。
結局、何が言いたいのかと申しますと、
それが、人生や運命の中の、どんなものであるにせよ、
まだ若い時にはフェイクの見分けがつきにくく、
騙されやすかったり、
それが偽物と気付きにくいものだということが、
今日は少し話したいのです。
私はその時、30歳を越えて、32、3歳でした、
それなりの恋愛経験値があったにもかかわらず、
まだ、こんなに見る目がないのか…と、自分では落ち込んだ次第。
人には、それぞれの、その時、その時の『段階』があって、然るべきなのですが、
見る目は、養えば養うほど、磨かれて行くものだと思いますので、
ほぼ、多くの人達はフェイクを掴まされて握らされて、喜ぶとは思えないので、
その、手に握っている何かが、
フェイク or Not フェイク
それを知ることが大事って、
今日は伝えたい。
それが、
『真実か否か』
を、
判断する、材料になり得ます。
フェイクであれば、人は苦しいもので
Not フェイクであれば、つらい時はあったとしても、
必ず、その中で、
心から笑っていられるものです。