自分の答えがわかる時・・・
今日は、少しツインレイのことについても、書きたいと思います。
これは、ツインレイについても言えることだと思うのですが、
人は、自分にとっての、
『究極の答えを出さないといけない時』があります。
その答えを出さなければ、前に一歩も進めなくなってしまうような…
それは、誰にもわからないことで、
自分自身だけは、とても辛い時だと思います。
恐らく、人に相談しても、支えにはなっても、答えは出ないような…。
最終的には、自分で答えを出して、もしくは、答えがわかって、
また、前に一歩進む・・・
それが、自分自身の『大事な人生』の大きな一歩となって、
一生のかけがえのない、答えになって行くような・・・
そんな時があります。
そんな、究極の答えを出す時、
『どうにも苦しいものだな・・・』と、私は思います。
恐らくそれは、『自分の限界の到達点』に、辿り着いた証です。
「ずっと、このことについて、苦しんでいたけれど、
答えはうまく出せなくて、苦しみ続けている…」
出したいけど、出せない、どうしたらいいのかさえわからない…。
そんな前触れが、長くあったかと思います。
それがあなたにとって、大事な事柄であればある程、
どうしても、それを乗り越えなければならないような、
一種の強迫観念にも似た、
『究極の選択を迫られている』ような感覚に、強く襲われる、
そんな時が、否が応でも訪れてしまう。
その時、
もがき苦しむのですが、
どちらを選ぶことになるのかと言うと、
『ほんとうのあなたの答え』
それを選ばざるを得ない、そんな事になっています。
先ほど、「答えを出す」と「答えがわかって」と二つ書いたのには、
『ほんとうのあなたの答え』は、
何故か強く引っ張られる、そうしなければ、
その答えでなければ、生きていけない、生きている心地すらしない、
だから、そちらを選ぶしか、自分の道はない、
『そんな未来』への答えです。
『結果』ではなく、『未来』
思考で考え続けて出した結果ではなく、
私はそうとしか生きられないと、観念するかのような、
未来への決断なのです。
私は、何故、
「その苦しみは襲って来るのか」・・・と、
その理由を導き出すと、
その理由によっては、
自分自身の出す、乗り越える答えが、変わって来るのだと分かりました。
どちらが自分にとっての正解かという答えを出すには、
その苦しみの根源が、何処にあるのかという、
その内容によって、変わって来る、
その苦しみが、己の根源の弱さや、
乗り越えなければならない、
『自分の人生の最重要課題』に該当するようなものだった場合、
出て来てしまう答えが、何もかもの条件や常識や固定観念を
超えたところに、『ある』という感じでした。
例えば、
私の場合は、
今の現状が苦しいからと、Aという選択をした場合に、
自分が消えてなくなる、自分の人生が終わってしまう、自分自身の何もかもが、
失われるような・・・そんな感覚がありました。
でも、『現在の今』も、充分苦しい、
その苦しみからも逃れたい
その現状から、逃れたいのに、
答えを『逃げる』と出すと、
自分がもう自分ではない、人生も自分も真っ暗になってしまう、
まるで『絶望の世界』が拡がるのです。
これは、現実世界だけで味わう『絶望の世界』ではありませんでした。
私の魂の世界でさえ、『絶望の世界』に染まったのです。
場合によっては、その苦しみから『逃げる』ことが正解である場合もあるのに。
「何故、今、こんなに苦しいのか・・・」
抗えない苦しみが、勝手に湧き上がって来る。
ある日、その苦しみが、『偶然の重なり』によって、
『限界の到達点』を迎えました。
苦しみから逃れる為に出す答えでは、
苦しみが増してしまう為、
どうしようもない苦しみと、共倒れになるか、
それを超える為の、私だけの答えで、
自分で自分を生かすかの、そのどちらかでした。
その『答え』が必要であった。
それを出さなければ、もう前方は見えない。
その答えを出すのに、時間が掛かってしまったのは、
もしかしたら、ある時は、その苦しみに向き合えず、
目を逸らしていたのかもしれません。
だから、『偶然の重なり』が、起きざるを得ない状態に、なったのかもしれません。
まるで、強引に、崖から突き落とされてしまうかのような場所まで迫られていて・・・
それまで培って来た、今までの私の人生のノウハウでは、
立ち回る事が出来ない。
今まである程度のほとんどの苦しみなら、乗り越えて来た自負があるのに、
ある程度の結構大きな悩みでも、答えが出せると思って来た筈なのに…
なのに、
『何故か、こんなに限界点でなければ、答えが出せない』
そのような状態になって、出せた答えが、
『魂の答え』でした。
魂と肉体の思考とを、『一致させて、魂の答えを知る』
その必要に迫られたのだと、思います。
それをしなければ、一歩が踏み出せない、
そして、その時、魂の答えを選べなければ、
私は、「私の人生を生きていない!」と、
叫ばなければならなくなってしまう・・・
そんな感じでした。
どなたかの、心の苦しみの助けの参考になれば幸いですが、
これは、もし、ツインレイの方と出逢われていて、
ある程度の年月を越えられて来た方なら、
読んでいて、ツインレイの苦しみと照らし合わせても、
ご理解いただけるのではないかと思います。
私も、何回かに分けて、出逢ってから、苦しみを乗り越えて来て、
また、今回がありました。
ツインレイに関しては、ほんとうに、
これでもか、これでもか、と来るものだな…と、
思いました。
自分自身の器を、もっと更に大きく、
たとえ限界でも、それ以上に拡げられなければ、
その道を歩くことを、阻められるかのようです。
人生でも、時に、究極の選択や、
大きな転機で出す、
『自身の答えに苛まれる』ということが、
あるかと思います。
苦しいけれど、『右』と、
右に行くしか無い場合も起こり得ます。
ですが、
結局その『右』が、自身の人生の(もしくは魂の)羅針盤通りであれば、
自分自身の、心や魂の、
ほんとうの『喜び』や『充実』に繋がるのではないか、
それは、「嘘のつけない『答え』」であり、
『本心の真実の答え』
自分の『魂の答え』なのだと思います。
この『魂の答え』というカテゴリーに、価値を見いだせるかどうかは、
人それぞれだと思いますし、
それぞれの、今置かれている状況や立場、そのようなものによって、
今は向き合えない、という場合もあるかと思います。
意外にも、自分自身の魂なのに、魂の答えがわからない…
『感覚』で掴んでいるものが、上手く言葉でどうやって掴んでいるのか、
説明出来ないかのように・・・
『覚醒』すると、感覚は研ぎ澄まされるのだけれど、
感覚だけで突っ走っていると、
肉体を持った自分を、置いてけぼりにしているかのようになってしまいます。
ほんとうの答えは、
『感覚』だけではない、
『永遠の導き』を得るかの如く、
『限界の到達点』で、訪れました。
断崖絶壁の崖っぷちに追い込まれ、
目の前に、突きつけられている、
「目には見えない『真実の剣』」は、
「お前は、どうしたいのか!」「さぁ!どうするんだ!」
そう言って、現れて、
その、あまりにも美しい剣を前に、
『どんな瞳で、何と言うのか』