本願を叶える

夢を叶える

『幸せである』ことの証明

本願を叶えるには、

時間が掛かることがある。。。

だけど、本願であればある程、

「その願いは、ずっとある」

 

どんなに、長い年月が経っても、

状況が変わり、その願いを達成するまで、

たとえ困難でも、

なんとか諦めずに、

心の奥に、ずっと、あるものだと思う。

 

私は、ある日

怖い事に気がついた…

私は、いえ、もしくは、人は、

どんなに「安定した生活を得ても」

 

「本当の望みが叶わない限りは、

彷徨える旅人のように、満足しないもの」

 

だと・・・

 

自分以外の、他の人が、

喉から手が出るほど欲しいものであっても、

自分自身の本当の望みのもの以外は、

 

『心の底から、満足出来ないものである』

 

だが、

人は、「自身の本望さえ、わからない時がある」

 

「特に若い時は、それが顕著で、多くは周りの人や、親や、世間の価値観に、

とても影響されていて、

本来の自分自身が、どこにあって、

何を望んでいるのかさえ、影響下に流されていたりするものだ…」

と、私は思う。

もちろん、早くから、「自分はこうだ」と、

何の抵抗もなく、全うしようと思って進んでいる方も

おられると思います。

 

私の場合は、前者で、

若い頃は、随分流されては決めて、間違いに気がついて、

やり直す、ということをしていました。

 

それで、懲りているにもかかわらず、

それでも、まだ、

「本望を見失いそうになる時もあった」

そんな、気がします。

 

でも、年齢を重ねると、

何処かで、「これは違うな・・・」

と、思っていることを、

知っている自分が現れていて、

間違いに早めに気がついて、

「では、どうすればいいのか・・・」と、

本望を叶えるにあたっての、

 

『目の前の壁』に、

 

乗り越えようと、(たとえ地味な行動で微力であったとしても)

しているものです。。。

 

『本望を叶えるのには、とても時間が掛かることがある』

 

まるで、「本望かどうか、試されているかのようだ」

 

著しく停滞した中で、もがき続けても叶えたいものは

何だったのか・・・

 

考えて、思い出せるものは、

あるだろうか?・・・

 

私は、ある日、それを叶えた時に、

『歓喜に及んだのだ』。。。

 

その夜、

一人で、

その部屋の布団で眠る時に、

心の中から、とてつもなく歓喜の感情が湧いて来て、

思わず、叫び出しそうだった。。。

 

悲しみが、永遠に続くものでないように、

歓喜もまた、その瞬間だからこそ、

起こり得るものだと思う。

 

私は、そこで

 

『歓喜をしたが、

 

その後は、また日常での様々な雑多な事柄に、

右往左往し、疲弊もした。

悲しいことも、辛いこともあった…

 

でも、紛れもなかったのは、

「自分で心底望んで得た道だった」

ということだった。』

その後、

『逆境であった事は、少しこのブログでもよく「節約生活について」

書いている通りです。』

私は、何とかその逆境を乗り越えて、

1年と半位、自分なりに努力もして、

ある、到達点まで辿り着いていた。

 

「それは、とても喜ばしいことで」

「達成感もあり、充実感もあった」

 

側から見たら、「羨ましいことになり得るだろう…」

と思った。

 

だけど、私は、

あの夜のように、

『歓喜に叫び出しそうなほど』の、

自分ではないことに

気がついた。

 

心は、大きな安堵と共に静かだったが、

充分に本来なら、満足してもいいところで、

私は、「これはこれで、でも、ほんとはもう少し…」

と、もっと頑張れたのではないか、とか、

これ以上を求めたり、

本当に落ち度はなかったか…など

おおよそ、歓喜とは言い難い感情を抱えていたのだ。

 

これは、他人から見た目と、

私の本当の気持ちとに、

ギャップがあるという認識で見た場合、

「私は、なんて

『贅沢なことを考えているのだろう・・・』

 

そんなふうにも、思えてならなかった。

 

私が、あの夜、

『歓喜に打ちひしがれた』のは、

『神の手助けあってこそ』という状況も、

大きかった。

 

「自分自身で勝ち取った努力、だけより、

そこに『神の奇跡』が乗っかると、

大きな喜びになるのが、

まさしく、人間の、

深い『感謝の気持ち』なのではないか・・・」

 

と、思ったのだ。

 

人は、『本望に関しては、自然と、多かれ少なかれ、

努力をするものだと思う』

 

時に、『その本望が、どんなに前途多難であっても、

やめられるものではないものだと思う』

 

しかし、その結果が、

『歓喜』であっても、それは一瞬でもあり、

後から、「本当にこれでよかったのか…」と、

本望であっても、思うこともある。

 

だけど、本望であればある程、

その、自分自身への答えは、

 

『良かったのだ』

と、

何度考えても、

『良かった』と、

何度も自分が答えるだろう。。。

 

「安定した生活」を得ることが、

『歓喜』に繋がるかどうかは、

また別で、

 

まるで、

『幸せになること』が、

その人、それぞれの、

心の中にしか

ないことの、

 

『証明のようだった』

 

 

 

 

 

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