かけがえのない人生と私自身
こんな話しがある。
「周囲に合わせて、本来の自分自身ではない自分で
過ごしていると、
本来の自分を好きになってくれる人には、出会えない・・・」
考えると、
「本当にそうだ。」と、
私は、思った。
『自分らしい自分』
本来の自分とはどんな自分なのだろう・・・
どこか自分を誤魔化していたり、
周囲に合わせて行くしかない、と思っている時、
恐らく、
『本来の自分』ではないのだろう・・・と私は思う。
そんな時、人はイライラしやすかったり、
落ち込み易いのではないか…と、
私自身を振り返って気がつく…。
更に、
それ以上我慢すると、
脳の機能までおかしくなってしまう事がある。
私は、
こんな話しをする時は、
よく、水槽の魚に例えて話したりする。
私が以前、住んでいた水槽は、
『私という魚の種類には、水が合わない水槽で、
ぽちゃん!と入れられた時から、
息苦しかった…』と。
しかし、生まれ持った環境を、
まだ生まれたばかりの赤子に、
どう変えられる事が出来るだろう…。
だから、
「なんとか、この息苦しく酷く苦しいが、その中で、
『なんとかしよう』・・・」
そう、絶えず考えた。
おおよそ、その環境下の中で、
多くは不思議に思いながら…、
私は、他の周りと出来るだけ同調する術を身に付け、
両親から、立板に水の如く浴びせられる、
「ああしなさい」「こうでなければならない」
という、呪文と共に、
尚一層、
そういった周囲に合わせる自分である事が、
生きて行くには仕方がない事だと思って生きていた。
私は、次々と苦しくなった。
人生の選択を、
次々に間違えてしまうかのようだった・・・
心の中に、『違和感』と『悲しみ』は絶えずあり、
頭の中に、『苦しみ』と『葛藤』が常にある。
前回のブログの記事でお話ししていた「因縁やしがらみ」の話しとも続くのですが、
私は、ある日、その水槽から出ました。
そして、私自身が、「ぷはぁ〜!!」っと、
一気に、息を吹き返したようになった時のことを、
その感触を、今でも覚えています。
そこから、少し試練の連続だった事も、
いくつかこのブログで書いていましたが、
そこから、私は少しずつ、
それまでの人生で身に付けてしまった、
私自身の癖のような物、考え方から言葉の使い方まで、
小さな事でも、それらに段々気づいて、
それらを、少しずつ削ぎ落として行くうちに、
『本来の自分』に還って行くようでした。
「感覚がそうでした」
私は長く、違った水槽で居ましたが、
これからは、別の水槽で泳ぐことが出来、
残りの人生を、
「かけがえのない『私自身』として」
目に映る、何もかもや
心に宿っていく、
生きている時間に過ぎながら、触れていくもの達で
埋め尽くして行くことができる・・・
私はそれを、大いに楽しみにしている。
たとえ、残りの人生があと数秒であったとしても、だ。
新しい人生と
それを、本当の私の全身全霊で
受け止める私は、
もう…ただ儚く散る花ではない