皆様の中で、「苦労する」という事は出来れば避けたいですよね
私もそうです。
何度も人生の中で、「なんで、こんなに…」とか「何故、このような経験をしなければならないのか…」とか
思いました。
その度に、『神様、何故?…』
と思う事は、しょっ中で、
その度に、愚痴っぽいな…と自分を責めました。
他の人の中には、もっと苦労が多い人も居るだろうに、とか
自分だけが、こんなに悲しいわけじゃない、とか
思いつく限りの慰めの言葉を自分に投げかけながら、
でも、「何故…?」と
また何度も思った。
前にもSNSの(Xで)お話ししたように、私は苦節25年みたいな所があり、
30歳の時に、頭に大きな光が落ちて来て、大きな覚醒体験があるのに、
何というか、なかなか有名にもなれず 笑
つまりは、成功者とは、ほど遠い生活をしていました。
でも、以前にこれまたSNSでMovie等でもお話ししたことがあるように、
《一見、苦労している生活の中に、いえ、その中であるからこそ、そこにキラキラとした本当を発見できることがある》
ので、
私は、それを大切にしたいと思って来ました。
そして、今思うのは、
私は、これまでの「苦労」と呼ばれるものがなければ、
【悪】を「倒したい。」とか、「打ちのめしたい。」とか、強く思えなかった。
例えば、性善説を唱えて【悪】に対し情状酌量を高らかに言う人もいるが、
その人が、一人一人の人間の【悪】をこれまでどれほど見たのだろう?と、
私は思う。
何故なら人は、善い人ばかりを見ていて、この世に悪人が居るなどとは思えるはずも無いからです。
憎しみを悪いものとして捉える人もいるが、
怒りや憎しみは何かを守る為にも必要です。
私はそれらの《感情》を蓄えて来たのだと自分で思った。
そして、それは私の内面に対しての《かけがえのない財産》だとも思う。
心の中に浸透して蓄えられるものには、《感情》と他に何があるだろう・・・
感動も感情の中に含めて。
頭の中にある《記憶》でさえ、心の中の《感情》とセットでようやく蘇って来るのではないだろうか?
何の感情もなく蘇る記憶はあるのだろうか
懐かしいな…そういえばあんなことあったっけ、懐かしいな…と思うのも懐かしいという感情です。
心がどんな時に、
その記憶は蘇るのだろうか?
もちろん、記憶を瞼の奥の映像に映してから、
その時の感情を呼び覚ますこともあり、
だから、どう…
というわけではないが、
私達は、感情で出来ていると言っても、過言では無いように思う。
あなたがこれまでに、どのような経験や体験の中でどのような感情を
その心に思い、
どんな苦しみを携えて来たのか・・・
私はその苦しみに『敬意を称したい。』
私は《感情》の深みは、その人の《人間性の深み》だと考える。
だから、私の
そしてあなたの『苦労は決して無駄では無い』