『楽しみについて』も、
不足から、生まれているような気がしてならない…
人生は楽しみがあると、
生きていけるようになっている。
ただ、絶望している時に、
自分にとって、
「何が楽しみなのか」
浮かんで来ないだけなのではないか、
と、思う。
絶望している時に、楽しみのことが浮かんでいたら、
そもそも絶望感は、味わってはいないわけで…。
このブログで、書き始めた事柄の多くの不足を、
これから、満たすことが出来るという
『楽しみ満載な人生』になったのは、
つまりは、長期に渡って、不足し続けたからが、
要因である。
当たり前のように、あったものが、実際に無い。
あったあの頃、
何故、有り難みや喜びが薄かったのか…
いえ、むしろ、
『それが有ることが、プレッシャーや重荷にさえ、感じられた』
何故か・・・それは、それを得た理由が、煩雑だったからだ。
私自身が、望んだことのようでいて、
実は、「私は、それを望んでいなかった。」という訳だ。
皆様にも、ご経験があるかと思う。
「行きたくなかったんだけど、
行かなければならないから行った。」とか、
「やらなければならないのではないか、」と、
全くやろうという気持ちではないが、
無理やり「やった。」
とかである。
それによって、得た物や取得した物が、あったとして、
それにあまり、有り難みを持つことが、
出来なかったりしてはいないだろうか?
私は、カフェを経営していたことがあります。
その時に、使っていたブレンドコーヒー豆は、
いつも焙煎師が、こだわりのコーヒー豆を、
焙煎したてで送ってくれていた。
何処よりも新鮮で美味しいと、自負があったし、
その豆を、挽きたてで、
手入れで丁寧に、一杯、一杯、
ドリップする時に、
新鮮な珈琲豆が、どんな息をしながら
コーヒーカップの中に、落ちていくのか…
私は、自身でカフェを経営していたからこそ、
『知っていた』のだ。
話していた通りの、節約生活では、
毎日、仕事のことや、生活費のことを考える事に、
頭がいっぱいで、
焙煎したての、挽きたてのドリップコーヒーを、飲むことなど、
遥か彼方、記憶の片隅の何処かへ
行ってしまっていました。
カフェを経営していたのは、前のことなので、
すっかり過去になっていました。
少しつらい事が続いたある日、
何かで元気を出そうとした私は、
コーヒーを、ドリップで、久しぶりに淹れてみよう!
と思い付いた。
しかし、何度も言っていますが、高い豆を買うことは出来なかった為、
スーパーのパックの、ドリップ出来るコーヒーを買いました。
カップの上に、粉の入ったパックを乗せて、お湯で淹れるだけの…
私は、この久しぶりの珈琲が、
「とても美味しかった。」
香りも、すごく癒された。
とにかく、久しぶりだった。
それから、私は、安い物でも、
ドリップで珈琲を淹れることが、
とても『楽しみに』なった。
毎日、疲れて元気がないなと思っては、そうした。
気分が上がる。
あの頃、あんな高級な物(値段の高いではなくて)が、あったのに、
いつでも、それが飲めたのに、
酷くカフェの経営に疲れて、その一杯一杯は、
待っているお客様が、多ければ多い程、
首筋に冷や汗がだらだらと流れる程、ハードで、
そう、おおよそ、楽しみなどとは
思えない、私の状態だった。
長い間の、
「あったはずの美味しい珈琲の不在」は、
どれほどの、
『貴重な楽しみ』に変わるのかを、
偲んだ日々が、教えてくれたのだ。
そもそも私は、アイスコーヒーばかりをよく飲むタイプでもあって、
深煎りよりは、浅煎り位が丁度いいとさえ思う、アメリカンな人。
その味は、お値段お安くても叶うのですが、
私のこれからの人生の中の、
珈琲に対する、
『楽しみの、位置付け』が、
『私の暮らしを、より豊かなものにしていってくれる。』
過去に、私を苦しめた珈琲達は、
これから毎日でも、
『私を楽しませてくれるもの』に、
変わったのだ。
それは、楽しもうとした
心から始まったから、
だからだろうか。
人は、それに対して
持つ「気持ち」で作用している。
「嬉しいのか、苦しいのか」
楽しくなりたいから、珈琲を淹れるのか、
お金にしないといけないから
淹れているのか・・・
経験があったからこそ、深く気づき、
それが無くなったからこそ、
それそのものの持つ、
本当の貴重な良さに、気づいた。
「ああ、なんて美味しいのだろう」
「ああ、なんてこの香りは私を癒すのだろう」
また、珈琲を淹れて
飲むのが
『とても、楽しみ』
これもまた、
『生きていることが、苦しくないように、
これから生きて行くことが、楽しみになるように、
神様がしてくれた』
と、
私は思う。