今日は、いくつかリアルで質問されて、
私はなんというか、口でそれを説明する時に、
この方に、よりわかりやすく事実や真実を明確にお伝えするには・・・
と考えすぎて、
あまり多くを話せない時があります。
例えば、私に対して全てを信じてもらえるなら、とても話しやすいのですが、
全てを信じてもらえないのに、話すのは私の場合、とても難しいのです。
ですが、普段自己紹介をしない私が、今日は少し、
自己紹介をするとするなら・・・という名目で、
少しではありますが、その経緯や内容をここに記します。
知らない方の為にお書きするのですが、
私は、時にお話ししている事なので、重複してしまいますが、
1999年7月7日夜、日付が変わる前の時間帯に、
突然頭に大きな光の玉が落ちてきて、大きなシャワーのように降りかかり降り注ぎました。
その時に、そのあまりにも眩しい閃光を受けた後に、
私の脳裏に、
あまりにも印象的に、大きな一枚の絵画のようなものが焼き付けられたのです。
その絵は、伝統的な古い絵画のようであり、(その絵の内容は今回の記事では伏せますが)
また少し映像として立体的にも感じられるもので、
私はその見たこともない、一枚の映像を脳裏でまじまじと見つめ、
なんだろう?と、
ただその瞬間の時間に、「この映像を忘れてはならない!」と
感じ取ったのです。
その日以降、さまざまな不思議体験を経験して行くことになりますが、
また同様に、普通の自分自身の人生も並行して横たわっており、
その二つの世界が、共同でいつも私の人生にありました。
理解してもらおうと、周囲の人間に話すこともありましたが、
なんというか、不可解な態度や、あからさまにバカにされる内容の言葉や目線等、
その時は、時代もあるかもしれませんが、
私としましては、説明する言葉を失うほどでした。
それから、リアルではあまり語らなくなったというのは、あります。
私は模索していました。
何故なら、
私に聴こえる、目には見えない存在の声の教えてくれることと、
現実世界で、それをマッチさせて行くことは、
遥かに難しい事に感じられる事が、
次々と私の身に降り掛かったからです。
これを試練、そう呼んでいいと思いますが、
その時の私には、
『何故・・・?』
そのような気持ちの方が強くて、
その時の現状の状況を明確に把握し、理解することも私には必要で、
また周りや世界にも私と同様な体験はなく、
私は、ますます悩み始めました。
それからは、自身の人生が大変な時でもあった為、
簡単に言えば、試練の連続、苦悩の連続でした。
他人からは、ハタ目に私のそのような状況は、ほぼわからなかったので、
理解もされることは、ほぼ全くと言っていいほど無かったです。
それから、25年以上経ちました。
私は書くことが好きでしたので、ブログ等は当時からやっていました。
ひとつのプロバイダーでずっと続けることは、ほぼ不可能でした。
まだインターネットは、始まったばかりで、プロバイダーも安定ではなく変化し続けていたからです。
私が今書いている、このWordPressそのようなものも、勿論ありません。
私は、シングルマザーでお金もなく、常に無料のブログスペースを借りていましたし、
また、現実的にお金を作ることも必要で、
シングルマザーになった時に、慰謝料や養育費もゼロで離婚していますので、
1才半の息子と、その時は生活して行くことで必死な時期でもありました。
ですが、そのような不思議体験を突如として体験することになりました。
それから25年の間に、何回かの覚醒体験を経験しました。
そしてそれも、突如起こることばかりでした。
覚醒体験中と、覚醒体験が解かれる間とあり、
私には何故そうのような時期の違いがあるのかも、説明をされたわけではなく、
ただひたすら、受け入れて行き、
また他の人に受け入れてはもらえない私の他の人との違いを、
私自身がどのように受け入れて行くか、というのも、悩みの種でした。
覚醒体験は、数回に分けて段階的に行われていました。
私が生まれた時は、勿論、普通の赤ちゃんですし、
その1999年の大きな体験まで、普通の人生を送っていました。
ただ母方の祖母は霊能者で、
またかなり、当時の時代ではあまりあり得ないほど威厳のある経練者でしたので、
私は幼い時から霊魂は居ると自然に思っていました。
不思議なことに、私の父は見えない世界を全く信じない人でした。
母は霊魂等は信じる人でしたが、と同時に、お金が全てと言う人でもありました。
私は、幼いながらに不思議に思っていた、親ではありますが、首を傾げる事の多かった2人だったのです。
祖母には、あまり会うことはできませんでした。
母方の祖母なので、母の在所までは車で1時間ほどあり、時には乗せてもらい行くことが出来ましたが、
その祖母は、私が6才で他界しています。
私は幼稚園で、祖母に会う時にはもう祖母は病床でしたので、
家での看護でしたので、母の在所に行けば会えた感じです。
そして、ほんのわずかな思い出のひとときでしたが、
その思い出の記憶があり、それを今でもずっとはっきりと覚えていますが、
その時の祖母の愛情が、その後の私を何十年とずっと支え続けたのです。
祖母は私のことを理解していました。
ある時に祖母と、目に見えない存在として、中学の頃、話しをすることが出来ました。
滝のように溢れた涙が止まらなかった経験でした。
後に、覚醒体験は何度かに段階を踏まえて、分けて行われる事が正しいやり方であることや、
それが、私を本当に目覚めさせる為に、必要であったことを理解しますが、
説明されたと言うよりは、
ある日、理解するに至ったのです。
多くのことを、一度に理解するのは到底難しいものです。
私は少しずつ噛み砕くように、受け入れ、
自分が何者であるかを、
理解し、悟ったと言うのが、
私は私を説明するのに、
正しい言い方ではないかと思います。