先日から、質問に対してお答え形式でしたが、
今日は、私のお書きしたいことを、
書いて行きたいと思います。
ですが、連日『私について』のカテゴリーを更新していますので、それに関連するテーマでお話しを進めようと存じます。
今回は私の幼い頃についての続きのようなことをお話しいたしますので、
これに関しましての背景は、
私が小学生低学年の頃、
私が部屋に居て、近所のお友達が「遊ぼ〜」と例えば2人で玄関に来たとしても、
母が、「今、お昼寝してるから」と勝手に断ったりしていました。
私は昼寝していないのに、何故だろう?と思ったりしていました。
私の父は、祖父の立ち上げた高度成長期前の小さなプレス屋を、
高度成長期と共に大きくして行こうとしていて、
母は事務所で経理などをしていましたので、
まだ、その頃は有限会社でしたが、
それなりに従業員の方もみえて、
私は昼間も1人で居る事が多かったです。
と申しましても、その工場は、当時、すぐ自宅の横の敷地内に建っており、
プレスの音が一日中、ガッチャンガッチャン、ガシャーン、ガシャーン、と、
聞こえているのが常でした。
私は、家の敷地内に居るのは許可されていましたが、決して出てはいけませんでした。
両親は、家には居ません。
私は、敷地内の道路に接したギリギリの場所に、わずかな砂のある箇所があり、
(アスファルトとアスファルトの境目のような所)
そこで、空の牛乳瓶に、砂を少しずつ入れて、満タンになると、
逆さまにして、ジャーと砂をまた流す、
そして、また手で砂をその空の牛乳瓶に少しずつ入れる、また逆さまにして出す、
それを繰り返していました。
題して、1人砂時計ですかね・・・
そうしていましたら、ある3人の近所に住んでいた姉妹がおりまして、
その中の1人も、私と同級生ではないせいか、私はあまり知らない子だったのですが、
恐らく小学生2年生くらいの私に、声をかけて来ました。
「なにしてるの?」
私が、「砂をいれてるの」そう言うと、
寂しそうに見えたのか、その3姉妹の中で1番高学年の子が、
「一緒に遊ぼうよ」と言ってくれたのでした。
私は、喜んで近所のその子達の家まで付いて行きました。
そして、夕方も過ぎた頃、帰りたくないと駄々をこねたのです。
でも、「お母さん達が心配するよ、帰ったほうがいいよ、またおいでよ」等と言われ、帰った覚えがあります。
私がその子達のことを、近所でもあまり知らなかったのは、
道を隔てて、こちらからこちらまでは2班とか3班とかに区切られていて、
その班ごとに通学するからです。
3姉妹の誰とも、学年が一緒ではないのですから、あまり知らなくて当然なのですが、
私は知り合ったので、彼女達のことが気になるわけです。
そしたら、
1番長女のおねぇさんは、障害があってですね、それは昔で言う奇病に近かったのです。
簡単に申し上げますと、知能に少し障害があって、また見た目が醜悪である事が特徴なようでした。
そして、それ故に、同じ小学生からとてもいじめられていました。
あだ名は、ゲボが出るほど醜悪だからという意味で「げぼちょ」そんなあだ名が付いていたのです。
私はそれを知って、
彼女の私に話しかけてくれた場面を思い出すと、
私の記憶の中の彼女は優しく、そんないじめの対象になるような性格の持ち主では決してありませんでした。
確かに、言葉がはっきりとしない少しの聞き取りにくさ等はありましたが、
だからと言って、その話している内容が、意地悪であるなどということは決してなかったのです。
例えば、「どうして、1人であそんでるの〜?」とかですね、
「いっしょに、あそぼうよ」とかですね、
まるで、
その時の私の寂しさを、汲んでくれるかのようでした。
私は、彼女をいじめてる人間の方がおかしいと思っていました。
小学生の田舎の暮らしの中でも、いじめという問題は大なり小なりあってですね、
私はそれを見つめていました。
そして、いつもドブや、変な汚い溜め池などに黄色い学生帽を捨てられて泣いていた、
同じ通学班の女の子といつの間にか仲良く遊んでいたりしていました。
彼女が悪いわけじゃなく、彼女は家庭環境が複雑だったみたいで、
いじめられていた原因が、
少し勉強が遅れたり、上手く話せなかったり、少し身なりがあまり良くなかったり、そんな事でした。
泥々になった黄色い帽子を彼女が拾って、泣いているのが印象的で、
私はいつの間にか、彼女の味方になったのかもしれません。
話しは、その「げぼちょ」などと、変なあだ名まで付けられて、
そして学校内でも、ほぼ全員にそんなあだ名で呼ばれていた、
私より3つ位年上だった、彼女の話しに戻ります。
彼女は、そんなあだ名で自分が呼ばれている事を知っていましたね、
陰で呼ばれるという状況を超えていましたから、小学生ですから本人にそう呼びますからね。
でも、私は彼女が好きだったんです。
時々、隙を見ては彼女達の家に行きました。
が、
実は彼女達の家はその部落の中でも、最も貧しくてですね、
お米はまだ大きな鉄の釜のようなもので炊いておりましたし、家の中のほとんどが土間のような感じで、
トタン張りの壁面に錆が付いているようなそんな家でした。
私にはそんな事、関係ありませんでした。
人の家のことですし、この子の家の様式、位にしか思いません。
なんと言っても、やっと寂しさから解放されて、遊んでいたんですよね、
そうしたら、母が「もう二度と遊んではいけない」と言って来たんですよね、
そして、彼女の家のことや彼女のその障害が母親も持っていて遺伝だという事や、
とにかく酷い悪口というか陰口を吹聴して来るんですね、(これは、私の母がいつもやっている事です)
幼い私は、それでも遊ぶと言って聞きませんでしたが、やがて、
遊べなくなったのは、彼女が小学校を卒業してしまったのも理由だったかもしれません。
3姉妹でしたが、私はその障害が最も顕著だと言われて、あだ名が付いていた、長女の子と、1番親しく話しをしていて、
2番目の子や3番目の子とは、あまり話しをした記憶がないのです。
そして、随分と長い年月が経ちました、
私は、離婚し随分経ってから、実家の敷地内の離れの家(元は亡くなる前に祖母が住んでいた家、
とんでもない事情があって、祖母も亡くなっていましたので住み始めていました。実質、空き家だったのです。)
に、住み始めていて、その小学生の時に遊んだきりだった、彼女に再会することとなりました。
ここでお伝えしたいのは、私は彼女のことをなんて自分は呼んでいたか記憶がないのです。
「なになにちゃん」と名前を聞いた記憶もなく、
ただそのあだ名で呼ぶことは出来ないので、いつも「あ」とか答えていた感じです。
でも、顔を見れば、彼女の方から「◯◯ちゃん」と私のことを覚えていて、名前を呼んでくれるので、
私は思い出せなくても、「あ」と言ってそのまま会話を少しすることが多かったです。
彼女は、お話しした通り、彼女のお母さんとそっくりで、外見は良くありませんでしたが、
お母さんは早くに亡くなってしまいましたが、結婚していましたし、
そして何よりなのは、彼女も無事に結婚しておりまして、
その近所のお父さんが遺した家に、旦那さんと住んでいたのです。
3姉妹だったので、養子なのかもしれませんが、そのような込み入った話しは、した事がありません。
しかし、子供はいないようでした。
次女はどこかに嫁いだようでした。3女は残念ながら早くに亡くなっていました。
ある日、私が、実家の離れの自分の家の外の玄関先に出ていた時のことです。
庭先では、母と弟が何やら話しをしていました。
私は玄関先に居て、少し離れた庭先に2人が立って話して居たのです。
その時に、彼女がたまたまその前の歩道を、歩いて通り過ぎようとしていました。
弟と母が、すかさず顔を見合わせて、口に出して「げぼちょだよ、げぼちょ」と何も悪いことをしていない彼女の事を忌み嫌う顔をしながら、
2人で顔を合わせ合うのです。
私は、それを見て、また信じられない気持ちになり、
私にとっては、幼い時に救ってくれた彼女に対して、自分自身の家族がそのような事をするのが、
嫌でたまらなくて、
私が普通に、彼女に、「こんにちは」などと声をかけて普通の挨拶を彼女が気にすることもなく笑って返してくれて、
ほっとした後に、
母に、
「あの子は、私を助けてくれた人なんだよ」と告げました。
母が、「どういう事?」と聞いて来ましたが、
私は、彼女との思い出までバカにされそうで、それ以上は、母には話そうと思いませんでした。
弟に何か言うつもりもなく、
何故かと言うと、私の弟は別に決して自分が外見がいいとかいうわけでもなくてですね、
それなのに、人の外見に対して何か言うのだけは、とてもよく品評して、悪口を言うタイプでしたので、
それが何か、弟がやる事としてあまりにも「あいつならそうだろうな」
そんな感じの場面でしたので、
何か言って、こっちが又変な事をされても嫌ですし、
一応、母にだけそう一言申し伝えました。
それが、私の彼女を侮辱した家族への、ほんの少しの一撃です。
その後も、彼女とは時々偶然会いました、私が外を散歩していると会ったりですね、
すると、彼女はニコニコと「元気?」と必ず声をかけてくれたり、
相変わらず、だったんですよね。
そして少しの間、軽い立ち話しをして、
「じゃあね、元気でね」と言ってまたバイバイするといった感じでした。
驚いた事に、何故か彼女は地域の情報にとても詳しくてですね、
「お父さん入院したの?」とか知ってたりしたんですよね。
それにはいつも驚かされていました。
彼女は自分が「げぼちょ」なんていうとんでもないあだ名で呼ばれてることもずっと知っていて、
でもニコニコといつも挨拶していて、
自分が苦しいという顔を彼女がしているのを、私が見たことがないんですよね、
私は、彼女の幸せをいつも話しの最後に願っていて、
「寒くなるから気をつけてね」とか言うと、
彼女がいつも、「うん、ありがとう◯◯ちゃんもね」と、
相変わらず、あの時のように
私の名前をそう呼んで、
私も、
「うん、ありがとう」と言って、
お互い笑い合って、話しを終えるのでした。
今は、私は生家を離れたので、彼女のことは分かりませんが、
ずっと幸せでいてほしいと願っています。