『幸せについて』の、記事でも書いたように、
『夢について』も、不足から夢が生まれることも
多々ある。
不足があるから、
「こんなふうになったらいいな…」と始まって、
ないものに気づくから、求めるのだと思う。
もう十分幸せになっていても、
「もっとこうなったらいいな」は、生まれるだろうし、
欲望と夢は、そんなに変わらなくもないかな…と思うが、
どんなことを描いたかで、夢と呼ばれたり
単なる欲望となったりするのだろう。
例えば、相手が居て、相手が望んではいなかった事を、
自分だけは押し通そうとしたりするのは、
夢ではなく、単なる欲望になるだろうし。
理想と現実のギャップも、
大いに、『夢創造の基材』になると思う。
その差が大きければ大きい程、
人は、「切に願ったりする」ものだろう。
その場合、例えば引き寄せなどでは
執着も過ぎれば叶いにくい…等と言われている
確かに、
何故か、そのことなど全く考えてもいなかった時などに、
突然、
叶っていて
驚いたり、喜んだり。。。
そもそも、当たり前のように、
期待通りだったら、「喜びは半減する」。
充分に満たされることが、当たり前だったら、
感謝など生まれないのでは、と思う。
大きな不足は、
より大きな『深い感謝』に勝手に、
自動的に繋がっている。
際限なく、不足に目を向ける必要はないが、
(不足に目を向けるのは苦痛でもあるので)
不足を感じる心の奥に、
自身の夢が隠されてるかもしれないことも
また事実。
「そう言えば… もうずっと前から こうなることを望んでいた。。。」
と、 気づいたりすることもある。
そもそも、叶いやすいものは、
小さな目標になるのかもしれないが、
どちらかと言えば、感覚的には、
その夢の大きい小さいに関係なく、
自分が夢のように思えることに、
大きい喜びがある。
目標達成=夢 が同一であった場合も確かに達成感と共に、
大きな喜びに繋がっているが、
意外にも、些細な出来事の中に生まれた、小さな夢に、実は大きな喜びも隠されていて、
例えば、先日の『幸せについて』の記事のように、
「今はお金がなくて買えないけど、美味しいアップルパイが食べたいな」
なんて、側から見たら、小さな夢でさえ
その時期がつらければつらい程、
私にとっての、
喜びは大きいのだ。
その、他人から見たら『小さな夢』と呼ばれるものは、
私にとっては、
他人から見たら『大きな夢』と呼ばれているものを、
叶える以上に、
幸せと喜びになったりする。
私にはこれこそが、
『ほんとうの神様からのプレゼント』に思う。
要するに、見栄は
何の心の喜びにもならないのだと、神様はいつも知らせているように、
私は思う。