善と悪について

私について

 

大きなテーマですが、今日は少し『善と悪について』

私の、考えや意見を述べたいと思います。

ただ、これにつきましては様々な意見や考えがあるのは、もちろんのこと、

難しい《それの境界線》については、

生きる環境や、国、また人種によっても、

違いがあって尚、然るべきであることを

《ひとつ念頭において》、

お聞きくださいましたら、大変、幸いです。

 

人によって、善と悪を分ける時に、残念ながら多少の違いがあり、

故に、難しく思う事もあるかもしれませんが、

基本的に、それにつきましては、私からは、《モーセの十戒》を、

基本とされたらいかがでしょう?

と、申したく存じます。(簡単ですので)

 

私のことを以前から、ブログやSNS等でよくご存知の方は、その経緯や、

生き方など、ご存知になっていただき、

周知していただいている面も多いかと思います。

 

しかし、私は、

SNSでは出たり入ったりと繰り返す事が、残念ながら理由があって多く、

その実態が掴めない方も多いかと存じます。

 

私は、その件につきまして、

実はあまり説明したくはありません。

何故なら、

『感じてもらいたいからです』

 

また、『感じられない』のであれば、仕方がないという考えを私は持っています。

私は、

人それぞれの《感受性》を《重視》しており、

肌が合わないのと同じように、

《感受性》の合わない人といくら話しをしても、

【無駄である事が多い】事を、

経験上、私は、充分に承知しているからです。

 

例えば、ある人の作品を見て、感じられるものがあり、

理由は説明できないけれど、涙が出ました。

とします、

私には、

その涙が出て、その方が《癒された瞬間があった》それだけで充分だと思うのです。

 

人には、《感じられる》という機能があることは、

誰にも否定はできないと思います。

例えば、仲良くしていた人と、何らかの理由があって、しばらく会うことができなくなるとか

もうこれで会えないかもしれないとなった最後の日、

悲しみが心を襲うのは、

どんな環境でたとえ生きようとも、あると思います。

それは『悲しみや寂しさを、感じられるから』です。

 

ここで、話しは元に戻りますが、

この、

誰もが持つ《悲哀》について、

故意に、そのような状態に他の人をさせよう、

そして、自分は気分よくなればいいと考え、

実行する人間がいるとします。

私は、このような人間について、【悪】と思います。

 

他人の物を盗み、自分は得をして生きて行こう、とか

愛を育んでいる人の間に割って入り、陥れて奪おうだとか、

これらも、私は決して軽視はしません。

 

また、無論、

自分の利益の為に人を殺害しようだとか、苦しめようだとかは、

言語道断で、

 

そういった事に私は、論議が必要だとは思えません。

 

私は実際に、経験上も、

自分が最もな弱者であった、

まだ幼い子供であった時からの、父親からの殴る蹴るの暴力、

またそれをやらせようとして、

【わざと嘘をついて私が悪い事をしたとでっちあげて殴らせていた】母親、

 

このどちらを、【悪】と考えますか?と、

私が質問して、

あなたならどう考え答えますか?

実際に手を加えていない母親は軽い罪だと言えますか?

その母親には、厳重注意でいいのでしょうか?

その母親はそれでもうやらないのでしょうか?

私は、母の気分やその時の立場、(例えばその時、母自身のやった事で母が父に殴られそうであった、等)

そんなものに左右されて、

いちいち、何もしてないのに、ただ自分の子供部屋で勉強していただけで、

突然、部屋に怒鳴られながら入られ、殴られ、蹴られ、

そんな事に、遭い続けなければならない。

この母親の行動は、原因を遥かに超えて、【全て悪】です。

私は、そう思います。

そして、そういった者を【犯罪者】として、

きちんと、法に裁かれているべきなのが《法治国家》なのです。

 

ここに、

その人間が権力があるだとか財力が豊富だとか、人気が高かったとか、

介入してくる問題ではありません。

それが《平等》であるのが、法治国家だからです。

私は、《法治国家》である日本はいい国だと思っています。

何故なら、例えばですが、

生贄に若い娘を順番に神に捧げる生活の人種や民族がいたとして、

そのような国や村に、

あなたは生まれたいと思いますか?

でもしかし、

その村では、それがその娘にとって、どんなにつらくとも当たり前であった場合、

国に、罪として守ってもらう事も出来ないわけですから。

 

しかし、残念ながら、

その法治国家である国であっても、

権力や財力で、どうにかしようと、

平等を、そのようなもので捻じ曲げる人間が存在し、

それがまかり通るようになると、

もはや、生贄民族以上の、

罪の無い被害者とその被害者を愛していた人達の、

耐え難い悲しみで溢れかえる未来を簡単に想定出来、

全くそれは、

生贄民族以下の思考能力が成し得ている【犯罪】なのです。

 

長くなってしまいますので、

今回は、《善悪について》という大きいテーマで少しお話しをするだけに、

とどめたいと思います。

と、申しますのも、

大きなテーマを題材にすると、必ずそこには《思想が介入》します。

《思想》というのは、本来《自由》なものです。

 

そこに、大きな善悪というテーマが乗っかれば、

わかると思いますが、

争いになります。

これらの件については、

小さな議論に留め、

お互いの幸福を祈り、自身は悪に身を染める事無く、

悲しみに対して、手を差し伸べたい。

 

しかし、私が手を差し伸べたい悲しみとは、

無論、

【加害者が責められた時に突然持つ、被害者意識】とは、【非です】。

 

簡単に申しますと、

私の母親が常にこのようにして、父親を味方につけ、

自分は悪くないと言い続けて、その場の泣き芝居等で

やり過ごしておりました。

それ故に、

母の嘘が常にまかり通り、

私は、何十年と延々と、家族の中で、

苦しみや悲しみの出来事が多くなりました。

 

これは、もしかしたら

私のような事を体験しなければ、ピンと来ない出来事になり得るかもしれませんが、

想像力のある方なら、また、お心のお優しい方であれば簡単に察しがつくと

存じます。

 

私は、その経験故に、

このような人間を、経験の無い方より、熟知しており、

それを基に、

「あなたはいけない。」

と、そういう事をやっている人間に、そう言う事で、

救いたい人が居るのです。

私と同じ悲しみを、

背負わせたくは無い。

 

ただ、それだけ。

 

 

長文になっても、なので、

今日はここまでにします。

 

わかって欲しいというよりも、今日はたまたまリアルで質問があったので、

少しお答えしたいかな、と思いました。

 

これは難しい言い方になってしまいますが、

実は、私はわかって欲しいとは思ってなくて、

理解を求めています。

両方一緒のように思われるかもしれませんが、

わかって欲しいというよりは、

理解してもらえたら嬉しいし幸いだなと思う気持ちです。

 

中々、理解されずに生きてきた私という人間が、

例えば、ふと理解してもらえたと

私がわかった人に、

目の前で触れた時に、涙が出る思いになる。

それは、誰しも、

あることなのではないでしょうか。

 

また、私は

私自身が、

『わかるよ』と思ってあげられる

そういう人間で

ありたいのです。

 

理想を言えば、【被害者意識以外の】、

《どんな悲しみにも》

『わかるよ』

と、そう

たとえ、相手に対して言葉にはその時しなかったとしても、

そう応じてあげられるような人間として

生きていたいのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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